仕事のかたわら、骨髄バンクの講演会や支援活動を積極的に行っています。
石井さんは大学在学中の21歳のとき急性骨髄性白血病を発症し、22歳で骨髄バンクを通じて骨髄移植を受けました。 移植後に復学し、自らの移植経験を通じて考えたことを卒論のテーマにしました。
(このインタビューは、日本骨髄バンクニュース第52号[2018年7月4日発行]でもご紹介しています)
PROFILE
石井希(いしいのぞみ)さん
大学3年の冬休みに実家に帰省した時のことです。だるくてご飯も食べられなくて、何かおかしいなと感じました。12月に高熱が出たことが2回ありましたが、ウィルス性感染だろうと言われました。気にはなりましたが、自然に熱も下がったので特に問題ないと思っていました。
しかし1月に膀胱炎になってまた病院に行くと、「血小板が非常に低いので、血液の病気かもしれない」と。翌日何度も知らない電話がかかってきました。泌尿器科の医師から相談を受けた内科の医師が、偶然にも以前血液内科にいた方で、ピンときて電話をくれたんです。「今日すぐに検査入院してください」と言われて、「部活あるので明日じゃだめですか」と答えましたが、「今日来てください」とのことでした。
電話を受け病院に向かい、そこで血液検査をしたら昨日よりも血小板が低下していました。その後の詳しい検査の結果、急性骨髄性白血病とわかりました。移植のできる専門の病院を紹介され、実家のある静岡県の病院を選んで転院し、抗がん剤治療を開始しました。
私の白血病のタイプは予後の良いものと悪いものの中間群で、医師からは「完璧に型が合うドナーがいれば移植したほうがいいが、そうでなかったらリスクを負ってまで移植する必要はない」と言われました。
姉と弟の型は合いませんでしたが、骨髄バンクで完全にHLA型が一致するドナー候補者は何人か見つかりました。しかし全員辞退という結果になり、先に進まなかったんです。そのときは寛解で状態が良くなったので、移植はしないことにしました。
でも4カ月後の11月に再発し、今度は1座違いでも移植に踏み切ることになり、翌年2月に骨髄移植をしました。最初の発病から約1年後のことです。
でも、病気がわかった時は取り乱しましたし、大学生活は部活の競技ダンスをがんばっていたので、ペアを組んでいたパートナーに「何て言ったらいいだろう」と思いました。特に4年生は最後の年になるからもっと結果を出したいと、部活全体でがんばっていた時でしたから。パートナーは最初、自分もやめると言いましたが、私のためにも結果を残してほしいと伝え、最後の大会までほかのパートナーとがんばってくれました。
入院中、ダンスのことはずっと考えていました。みんなの大会の成績や動画を見て、自分も踊りたいなと思っていました。今は元気になったけれど、体力的にまだ踊れないので、いつか得意のラテンダンスを踊りたいですね。
最初の抗がん剤治療を受けて退院してから、4カ月間は何もしていなかった時期がありましたが、再発してからは、同じような生活をしていたら後悔すると思いました。移植して、生きるか死ぬかを経験し、たまたま生き残った今、「今できることを少しずつでもやっていこう」と決心しました。後悔したくなかったんです。
大学には、やむを得ない事情で一旦退学しても復学できる再入学制度があり、発病から2年後の2017年に復学しました。そもそも3年間ろくに授業に出ないでダンスばかりだったせいで、卒業に必要な単位がたっぷり残っていました。たとえ病気をしなくても卒業できなかったかもしれません。
退院してからも体調が悪かったり、1日外出すると疲れて翌日は動けないようなこともありました。それでもなんとか1年間、自宅から東京の大学まで週3~4日新幹線通学し、残りの単位を取りました。こんなに勉強したのは久しぶりでした。
移植後は、移植を乗り超えたことで物事をポジティブに考えられるようになりました。今生きていることが奇跡的なことだし、大変なことも前向きにとらえられるようになりました。
卒業論文も「自分が経験したからこそ書けるものを書こう」と思いました。復学して学校生活を送る中で、骨髄移植について知らない学生が多いと感じ、もっと知ってほしいと思ったんです。そこで卒論のテーマを「若者のドナー登録のために私に何ができるか」とすることにしました。
もう一度自分の病気と向き合いながら調査することは大変でしたが、『日本の骨髄移植の問題点と解決策-大学生のドナー登録のために出来ること-』という論文にまとめました。
また、骨髄バンクをもっと知ってもらうために、学内講演会も開きました。
移植後のつらかった時期を経て、血液型はA型からO型に変わりました。移植後、輸血するとき血小板はA型、赤血球はO型で違うものを入れていたんです。ドナーさんからもらった命が自分の中にあって、今混ざってるということを感じ、生まれ変わった感じがしました。
でも退院してから1年間は、発熱やじんましん、足の痛みと、多いときは3日に1回くらいのペースで通院が続きました。
卒論での調査で実施したアンケートによると、若い人たちに骨髄バンクを認知してもらうには、「移植や提供した人たちの体験談を直接聞く機会があるといい」という意見が多かったです。若い人に移植について知ってもらうためには、私のような患者が直接話す講演会が最適だと思います。
ただし、それだけでは限界があるので、大学生ができることを具体化する方法の1つとして、「骨髄バンクユースアンバサダー」の立ち上げに参加しました。10代~20代の骨髄バンクサポーターの育成です。自分がその第1号ですが、母校の学生だけでなく、各大学のボランティアセンターのネットワークを通じて広がっていくことを願っています。
今年4月から、市の就労支援の協力で、病気に理解のある地元の会社で就業時間を調整しながら仕事を始めています。将来的には、移植した経験を仕事に活かせるような職業に就ければいいなと考えています。移植や骨髄バンクを考えるというテーマは、これからもライフワークとして追い続けていきたいです。