「私と家族と、私に関わる大勢の人に笑顔をもたらしてくれた」
中川さんは2人のお子さんを持つお母さん。出られないだろうと思っていた息子さんの卒業式に元気な姿で出席することができる嬉しさとともに、ドナーさんへの感謝を語ってくれました。
PROFILE
中川里枝子さん
7 年前、慢性骨髄性白血病という病名を聞いて、真っ先に思ったことは子どものことです。下の息子はまだ幼稚園の年中組でしたから、この子の小学校の入学式も、私は見られないかもしれないと、ホントに頭のなかが真っ白になる思いでした。
それからは、子どもたちに「生きるための知恵」を教えることが暮らしの中心。また闘病中から骨髄バンクのボランティアを始めて、病気と闘う患者としてテレビなどの取材などにも積極的に応じてきました。
でも、家事もボランティアも、結局は「死への準備」だったような気がします。私がいなくても、ちゃんとやっていけるようにという......。テレビへの出演依頼も、生きている私の姿を、映像として子どもたちに残せるという思いから受けていたんです。
それが、骨髄移植を受けた日から自分でも予想していなかった「生きる」という方向に、人生が動き出した。ドナーさんが現れなければ、私は今ここにいなかったことを思うと、どんな言葉でも伝えきれない感謝の気持ちで胸がいっぱいです。
病気が分かったのは、手のケガがきっかけでした。外科で血液検査を受けたら、「あなたの血液は白血球が多いから調べてもらって」と言われて。で、内科に行って検査を受けたとき、顕微鏡で白血球を見せてもらったんです。
それはハート形があったり、3つも核のある血球があったりして、一目で不ぞろいなのがわかる状態だったんです。その内科からも、さらに大きな病院を紹介され、もっと詳しい検査を受けるようにと言われました。
次の病院への受診までの数日間、図書館や本屋に行って、病院で見た血液のことを調べました。どの本を見ても、白血病だと書いてある。その時の症状から判断して、たぶん慢性骨髄性白血病だと思いました。本には、発病して4、5年で急性転化して(病状が悪化して)死に至る、骨髄移植以外に治療法はない、とありました。
でも、他の病気だと信じたいですから、さらに別な本を見る、でも同じことが書いてある。もっと別な本を見る、また同じ記述に当たる、の繰り返しで。病院の先生なら、きっと違う病名を言ってくれるだろうという思いで受診したんです。
ところが、病院の先生は「ご兄弟はいますか? ご両親は健在ですか?」と病名には触れずに、逆に質問してくるんです。これは骨髄移植のことを言っているんだなと思いました。そうは思いましたが、まだその時点では違う可能性を信じていました。
主人の口から病名を聞いた瞬間も、まだ信じられなくて。本当に自分の身に起こっていることなんだと思えたときには、頭のなかはパニックでなにをどうしたらいいか、全く考えられませんでした。
自分は白血病で、あと4、5年しか生きられないかもしれない。その事実を受け止めたとき、考えたのは子どものことです。生きるための知恵を、家事を教えなくちゃいけないと思いました。当時上の娘は小学4年でしたが 、それはもう厳しく教えたんです。料理とか、洗濯とか。
例えば洗濯は、学校から帰ってきたら、まず洗濯物を取り込んで、畳んで、引出しにしまわないと遊びにいかせなかったんです。子どもは一刻も早く遊びに行きたいから、乾いてなくても、とにかく畳んで出かけてしまう。ですが、それを私が見つけると、遊びに行った先のお友達の家に電話して、帰ってこさせてやり直しです。娘はベソかいて帰ってきました。心配したお友達もついてきたりして。
食器の洗い方もそんな調子で、洗い残しを見つけると「ここにバイ菌がついてしまう。白血球のないお母さんがこれでご飯食べたらお腹痛くなるよ!」と洗い直しをさせました。今考えれば、ホントに鬼のようでしたね。
骨髄移植をしなければ 生きていけない。それは病気を知った当初から分かっていたことですが、移植そのものは、ずっと恐かった、できればしたくないと思っていました。私がなにより恐かったのは、骨髄移植しても5年後の生存率は4割 、 6割の人は助からないという数字です。
人によっては、生きる可能性があると考えるかもしれません。移植しなければ、数年後には確実に 生きていない わけですから。でも、私には6割も死に向かう可能性がある治療法にしか思えなかった。苦しい治療を受けて、しかも治るかどうか分からない移植を受けるくらいなら、私はあと数年の命でいい、とまで思っていたんです。
最初の主治医は「HLA型が完全一致でないと骨髄移植はすすめない」という方針だったのも幸いして、完全一致のドナーさんが現れるまで移植はしないつもりでした。そこで骨髄バンクのボランティアをはじめ、血液疾患の患者会「フェニックスの会」に参加したりもしました。
闘病中、家族はもちろん、親戚や友人からも助けられ、自分は多くの人に支えられていると実感することが多かったし、患者同士で励ましあったり治療の情報交換をしたりと有益なことも多かったです。ただ、患者仲間で亡くなった人もいますから、治療法や病気を知れば知るほど、移植への恐怖も大きくなった気もします。
自分はこのまま急性転化せずに過ごせるんじゃないか、そうだといい、と願っていたんですが、やはり病状が進行して移植を考えざるを得ない状況になったのが、発病して4年半後。移植のための病院に移り、新しい主治医から、あらためて一座不一致の骨髄移植を勧められたのですが、話を聞きながらも「この先生は私を殺すつもりなの」という気持ちでした。それくらい移植は、私にとって受け入れられないことだったんです。
ドナーさんが決まり、移植のスケジュールが決まってからも、私のなかではまだ迷いがありました。決心がついたのは無菌室への入室の日、看護婦さんに支えられて部屋に入るときに「移植は嫌、入りたくない」と大泣きしてからです。それまではどんなにつらくても泣いたことはなかったのですが、その時だけは自分を抑えることができなかったんです。
その時は手がつけられないぐらい取り乱したんですけど、 担当医に「心療内科の先生を呼びましょうか」と言われたら、「あんな若い先生に相談しなくてもいい」とスッと冷静になって、無菌室のベッドの上で落ち着く事ができたんです。それから、自分が考えていたのとは、どんどん違う方向に人生が進みだしました。
移植は無事に済んで、その後の回復もほぼ順調です。 今年は、きっと出られないと思っていた息子の小学校の卒業式にも出席できます。これには息子より、私自身のほうが感慨深くて、式のことを考えると、もう目が潤んできてしまうくらい嬉しいですね。
娘は、私に厳しく仕込まれた成果か、料理とお菓子作りが大好きな女の子に成長して、今は高校の食物科に通いプロを目指しています。移植直後の大変な時期と、娘の中学卒業がちょうど同時期で何もしてあげられなかったんですけど、卒業間際の「日頃伝えられない思いをレタックスで送ろう」という授業で、娘は私宛にひと言「生きろ!」と書いて送ってくれました。それは今でも宝物ですね。
こうした喜びや家族の笑顔、親戚、友人などたくさんの人に笑顔をくれたのは、ドナーさんの勇気ある行為です。迷いに迷った骨髄移植も、顔を見ることも名前を知ることもない私のために、わざわざ入院して全身麻酔して、骨髄を提供しようと言ってくれる方がいる、その存在に支えられてやっと決断できたようなものです。
ドナーさんには、どんなに言葉を尽くしても伝えきれないほど感謝しています。でも手紙には「ありがとう」としか書けませんでした。そのひと言で、どれくらい気持ちが伝わったかしらと、今も考えています。
すでにドナー登録をしている方、これから骨髄提供をなさる方には、ドナーという行為は、患者やその家族、知人、病院のスタッフなど、さらにたくさんの人に笑顔をもたらす行為だということを知ってもらいたいです。本当にドナーさんがいなければ、私たち家族に今の笑顔はありませんでしたから。
そして、 これからドナー登録を考えている方には、ひとりの勇気と骨髄液が、患者ひとりの命を救うだけでなく、実に多くの人に喜びをもたらすことを知っていただけたらと思います。1人でも多くの患者さんと家族が、私と同じように笑顔を取り戻す日が来るように願っています。
Interview後記
自分ではなく、子どものことを真っ先に心配する。母親ならでは中川さんのお話には、聞いているこちらも胸が締め付けられる思いがしました。でも「子どもたちを厳しく仕込んだかいがあって今はラク」と、災い転じて福となった部分もあったり。とはいえ、それもお母さんが生きていてこそ、ですよね。「少しの勇気と骨髄液が、多くの人に笑顔をもたらしてくれる」という中川さんのひと言から、逆に提供する勇気を分けてもらった気がします。自分ではなく、子どものことを真っ先に心配する。母親ならでは中川さんのお話には、聞いているこちらも胸が締め付けられる思いがしました。でも「子どもたちを厳しく仕込んだかいがあって今はラク」と、災い転じて福となった部分もあったり。とはいえ、それもお母さんが生きていてこそ、ですよね。「少しの勇気と骨髄液が、多くの人に笑顔をもたらしてくれる」という中川さんのひと言から、逆に提供する勇気を分けてもらった気がします。