毎年受けていた人間ドックで急性骨髄性白血病が判明。化学療法で退院後、再発し骨髄移植を受けることになりました。
移植後は順調に回復し、学校に復職も果たしました。これからは骨髄バンクだけに限らず、自分ができるボランティアをやってみたいそうです。
PROFILE
林正順さん
人間ドックは毎年受けていました。最後の問診で先生から「すみません、もう一度血液検査をさせていただけませんか」と言われました。そのときは「あ、失敗したのかな」ぐらいしか思っていませんでした。検査後にもう一回問診があって、血液内科がある他の病院に行くように勧められました。ただごとではないかもしれないと、いやな予感がしました。
大学病院で血液検査をして、1週間後くらいにマルク※を受けて、その検査結果を聞きに行くと、その日のうちに「すぐ入院してください」と言われました。血液中の白血球が増えていたのではなくて、減っていた段階だったそうです。自分では身体がつらいとか、とくに自覚症状がなかったので、入院と言われても実感がありませんでした。検査結果は妻と2人で聞き、病名は「急性骨髄性白血病」でした。
※マルク...骨髄穿刺。胸骨や腸骨から骨髄を吸引する検査。
入院するとすぐに化学療法がスタートしました。治療中は暇だったのでパソコンを購入し、検査結果が出ると入力していました。同じ部屋の人は同じような病気の人ばかりですから「データを取っておくといいよ」とアドバイスしてもらったんです。そのデータを見ると、184日で寛解になったので退院できました。
主治医の先生には「再発した場合には骨髄移植しかないと思います」と言われていたので、自分のHLA型をチェックして、JMDPのホームページにある「HLA照合サービス」でドナーさんがいるのか調べました。そのときは23人いて、大丈夫かなぁと思っていました。
退院は2月でしたが、12月の血液検査をしたときに「あれっ?」とお医者さんが首をかしげたんです。1カ月後に再度検査を受けることになったのですが、「来たかな」という気持ちはありました。だから「再発のようですね。入院しましょう」と言われても、比較的淡々と受けとめられました。
結構、調べることが好きだったものですから、インターネットに再発する確率が5割とあって、それも1年以内で。それなら再発することはありえますよね。淡々とはしていながらもショックは大きかったです。それでも入院の準備もありますし、調子が悪かったのでコンピュータを買い換えないといけなかったですし、仕事の引き継ぎのこととか、たくさんやらなきゃいけないことが頭の中にありました。自分を忙しくすることによって、再発のショックを忘れるような雰囲気を自分で作っていたのかもしれません。
骨髄移植が具体的になってからは、HLA型が一致する身内はいなかったので、骨髄バンクに登録しました。全部の型が一致するフルマッチではドナーさんが見つからず、治療成績がさほど変わらないということで、一座不一致でしたがお願いすることにしました。移植までは3カ月ぐらいだったので、ドナーさんが見つかるかどうかという不安はありませんでした。
周りからいろいろと話を聞けば、移植すれば無菌室から戻ってこられないかもしれない。無菌室を出られるか出られないかがまず賭けであると。迷いはありましたけど、骨髄移植しか方法がなかったので、もうやるしかないと決意しました。1回目の入院では子供を病院に呼ばなかったんですけど、骨髄移植するときに初めて子供に病院へ来てもらいました。最悪の状況も覚悟していましたね。
移植当日は、ドナーさんが朝一番に採取して、夕方には移植できると聞いていました。ちょうど夕食の時間になってしまい、ご飯を食べながらポタポタポタポタと点滴のように骨髄を移植しました。移植は大変なイメージがあったので、簡単にできてしまってドナーさんに申し訳なかったです。全身麻酔でリスクがあるかもしれない、なのにもらった方はこんなに楽でいいのかなぁと...。
ベッドの上で移植した日から腹筋をしてたんですよ。退院するときに筋力落ちたときに大変ですよって。ベッドの上でもできる腹筋の仕方を教えてもらい、毎日やっていました。そんなこともあって、移植後79日で退院することができました。
その翌年、学校に復職しました。みんな暖かく迎えてくれました。入院する前に教頭先生が、もしドナーがいなかったときはいざとなったら県や組合を通じてでも探してやる、安心していって来いと言ってもらえたことはとても心強かったです。できるかどうかは別にして、その気持ちが嬉しかったです。友達がいきなり骨髄バンクにドナー登録をしてくれたこともありました。いろいろな人に支えられて生きていることを実感しました。
ドナーさん宛ての手紙を書いてパソコンに入れていたんですが、出せなかったんですね。パソコンの中に残っているんですけど、後悔しています。なんで出せなかったのかって、移植を受けたあと1年以内に亡くなる可能性が高かったし、無菌室からでられるかどうかわからなかったというのがあったからです。自分勝手な思い込みなんですけど、こんな精神状態のままで文章が書けなかったんです。言葉を伝えられなかったことはすごく悔やんでいますが、きちんと自分の気持ちを伝えられる状態ではなかったんですね。
いまからでも手紙が出せるなら、出したいですね。会うことが可能であれば、ぜひあってお礼が言いたい。せめてもの思いで、骨髄バンクを普及させるボランティア活動をしています。
これからは骨髄バンクだけに限らず、自分ができるボランティアをやりたいと思っています。いままで自分のことだけしか考えてなかったんですが、少し広げていこうかなと。職場の近くに障害者の方が運営している作業所があるので、その人たちとコミュニケーションをとりながら、できることをやってみるつもりです。今後は生徒にも広げていければいいですね。