急性骨髄性白血病を発病し、1995年秋に骨髄移植。拒否反応に3年以上苦しんだが1997年に完治。同じ病気で骨髄移植の経験を持つパートナー結婚。
PROFILE
志賀としえさん
病気になったのは7年前で、仙台市交通局でバスガイドとして勤めていた時です。冬だったので、最初は風邪だと思っていたんですよ。なかなか治らなくて、総合病院を紹介されたり、血液検査を受けたりしたんですが、まさか白血病だなんて思ってもいませんでした。家族からは「ちょっとひどい貧血のような病気」と聞いていたし。入院した大学病院の主治医から「薬の副作用で髪が抜ける」と言われたときは、さすがにパニック状態になって「それだけはダメです〜」って、いきなり泣いてしまったんですけどね(笑)。でも、それが抗がん剤の治療だとはぜんぜん考えなかったですね。
抗がん剤の治療は約1年続きました。免疫力が落ちるので無菌室に閉じこもりっきりだわ、高熱は出るわ下痢は続くわで、肉体的にも辛いし、精神的にも「なんで私ばっかり?」と悩んで、最初の頃は付き添いしていた母親にヤツ当たりしたりしました。
でも、そういう自分にも嫌になって、後半は「入院生活を楽しもう!」みたいな気分になったんです。見舞いにきた友人や同僚と歌唄ったり、ヴァレンタインになると病室でチョコレート作ったりしてね。問題児だったかも知れない(笑)。
当時は知らなかったんですが、私は治療中に病気が再発したんです。抗がん剤治療が長びくと、薬に対しても抗体ができてしまって、あまり薬が効かなくなるんですね。再発後、2回目の治療を終えた時、家族は主治医から「今回効かなかったら、娘さんの命はあと数カ月だと思ってください」と言われたらしいです。今思うと、現実をすべて受け止めていた家族のほうが精神的には辛かったのかなと思いますね。
でも、その治療で奇跡的に回復したんで、とりあえず骨髄バンクに患者登録して、ドナーさんを見つけましょうということなったんです。骨髄バンクのことは、発病するまでぜんぜん知らなかった。私が発病した7年前は、骨髄移植や骨髄バンクはやっと知られ始めたくらいで。
最初、適合するドナーさんは5人いたんですけど、詳しい検査でどの人とも白血球の型が合わなかった。それでまた探したんだけど、完全に合う人はやっぱりいない。でも「完全に合わなくても、特殊な移植の方法があるからやってみましょう」ということで、仙台から名古屋の病院に移って骨髄移植を受けることになったんです。
名古屋で入院したその日に、自分の本当の病名、急性骨髄性白血病を告知されました。言われたときには「えっ? 何言ってんの、この先生」みたいな感じ。「なんで今ごろになって言うんだろう」とか「なんで家族は言ってくれなかったんだろう」とか一瞬のうちにいろんなことを考えるんですよ。告知されたのもショックだったけど、続けて「移植治療を受けると、子どもができなくなる」と言われたときは、もっとショックだった。治療さえ終わって元気になれば普通に結婚して、普通に子どもを産んで「お母さんは昔こういう病気してね、いろんな経験してね、あんたのことを生んだのよ〜」みたいな話ができるかな、なんて漠然と考えていて。それが夢というか、病気を治す目標だったんですよ。だから言われた瞬間に人生設計がガタガタガタッ!って崩れちゃった。
妊娠の望みがないまま生きるなんて......そのときは考えられなかった。でも移植の態勢は、どんどん進んでいくじゃないですか。不妊になるから移植しないなんて言えない。ただ、冷静になって考えた時に「移植をしたら不妊になるけど、そのうち医療技術が発達して子どもを産むことができるかもしれない」って思ったんです。そう考えないと、踏み切れなかったっていうものあるんだけど、とにかく生きることだと思った。元気になれるチャンスなんだから、ここで移植を断わってもなんにもならないって。
移植前の治療は「人間ってこんな状態でも生きられるんだ」って思うくらい苦しかったです。致死量といわれる程の薬を入れられて、つばも飲みこめないぐらいにのどが張れあがって、3日間で5時間ぐらいしか寝れないときもあった。寝ちゃうと無意識のうちに唾を飲みこんじゃうから、飛びあがるぐらい痛いんですよ。1日をとても長く感じました。自分のところだけ時間が止まってるみたいで。
そんな時にドナーさんからの手紙が届いたんですよね。「これからが人生の本番だから。絶対頑張って生き抜いて......」って。これにはすごく励まされました。ドナーにもまったく危険がないとは言えないのに、そういうリスクを負ってまで私に骨髄を提供してくれたと思うと、私が参ってたらいけないと思ったんです。その手紙が、一番自分を支えてくれたと今でも思う。移植後も肺炎になったり、足が悪くなったり、危険な状態にもなったけれども、ドナーさんの存在がいつも支えでした。
私が今、人前で自分の体験を話したり、ドナー登録会で説明員のボランティアをしているのも、自分が元気になった姿をたくさんの人に伝えるべきだっていう気持ちが強くなったからなんです。ドナーさんへの恩返しっていったら変かも知れないけど、どんどん人前に出て「こんな元気になったんだよ」ってことを伝えていきたい。
骨髄バンクのボランティアには、患者の家族じゃない人もたくさんいます。最初、そういう人たちに会った時に「なんでボランティア始めたの?」って、みんなに聞いてまわってたんです。私は病気になったから関わっているけど、そうじゃなかったらボランティア自体、気にも止めなかったかもしれないし。で、ある人から「医者でも助けられない人の命を、自分のカラダが助けられるんでしょ」ってサラッと言われて。ああ、そうだよなぁって思ったの。
どんな名医でも、白血病は医者だけでは救えないわけです。なのに、たったひとり人間が誰か他の人の命を救えるっていうのはすごいことだと思うのね。リスクはあるけど、成し遂げたときには患者さんのためだけでなく、自分の心の財産になると思う。
移植して5年たって、やっと普通の人みたいに動けるようになりました。ここ1、2年ですね、特によくなってきたのは。拒否反応で足が悪くなったので、長く歩いたりはできないんですけど。移植後3年目には職場にも復帰したんですが、今は結婚したので専業主婦。毎日6時前に起きて、主人のお弁当を作って、朝ご飯作って。まだ慣れないんで「次のご飯は何を作る?」って考えて、1日があっという間に過ぎていく感じ(笑)。骨髄バンクのボランティアも結構忙しいし、とても充実しています、今。