1998年に慢性骨髄性白血病と診断、現在ドナーを探している患者さんのひとり。娘・愛香ちゃん、妻の真紀さんとともに、登録会ポスターに登場。
PROFILE
加藤徳男さん
みんなそうだと思うんですが、僕も病気になるなんて思ってもみませんでした。病気が分かったのは3年前の町民検診ですが、その検診もそれまでは行ったことなかったんです。うちはいちごの栽培農家なので、健康チェックを受ける機会は、町民検診ぐらいしかないんですが、検診が行なわれる5月は毎年いちごの収穫期で忙しくて......。でもその年は、仕事を始めて4年目だし、そろそろ受けておいてもいいんじゃない?という家族の勧めもあって、お昼頃に仕事をちょっと抜けて受けに行ったように記憶しています。その時は体調もよく、結果も全く気にしてませんでした。
ところが1週間後、家に保健所から電話があって。母が受けたんですが「白血球の数値が良くないので、再検査を受けてください」と言われました。白血球の数値は母曰く「1万6000」だったそうです。でも、普通の人でもケガをしたり体調が悪かったとすると、それくらいになることがあるらしいし。だから、たまたまだろうと思ってました。ただ、電話を掛けてきた保健所の方の声が緊迫していたのと、再検査を受けずにまた連絡が来たりすると面倒だからと思ったこともあって、近くの市民病院で検査を受けたんです。
再検査の1週間後、結果を聞きに病院に行きました。診察室に入ったら、先生が渋い顔をしているんです。で、「白血球の数値は16万に間違いない。詳しい結果をお話したいので、ご両親にすぐ連絡してもらえますか?」と言われて、これは只事ではないなと思いました。その日は、当時つき合っていて今は妻となった真紀と一緒に病院に行っていたのですが、彼女は肉親じゃないということで聞いてもらうわけにはいかない。でも両親にもすぐ連絡は取れないしで、困ってしまったんです。
でも、本人抜きで両親にだけ話されて、それで親がパニックを起こしたらどうしようとか、自分のことなのにうやむやにされたままでは今後の判断ができなくなるとか、いろんなことが頭を回って、白血球の数値が高い=白血病ぐらいの知識しかなかったんですが、先生に「白血病ですか?」と聞いてみたんです。「その疑いはある」という答えでした。彼女と2人で病院の会計を待っている間、まわりの風景が、病院に来たときとは全然違って見えたのが、すごく印象に残っています。
そんな形で病気のことを知ったんですが、当時は自分が病気になったということ以上に、まわりの人が自分と一緒に病気に向きあってくれるかが心配でした。その後、きちんと告知されるまでの間、「そんな病気、間違いに決まっている」と言ってくれた知り合いもいたんですが、自分にとっては励ましにならなかった。そういう励ましは、病気に向き合ってくれる言葉とは思えなかったんです。
本当に希望が持てるなと思ったのは、その後治療のために入院した名古屋の病院でです。担当の先生から「最近はいい薬もあるし、骨髄移植という方法もある。兄弟間で移植できなくても、骨髄バンクがありますよ」と聞いたとき、初めてホッとしましたね。
骨髄バンクのことは、仕事中によく聞いていたラジオで、以前から知っていたんです。CBCラジオの『つボイノリオの聞けば聞くほど』っていう番組なんですが、そのパーソナリティーのつボイさんが骨髄バンクのことを熱心に取り上げていて、僕もそのうち登録しようと思っていたんです。それだけに、今患者という立場ですが、骨髄バンクの活動に参加できて嬉しい反面、登録していなかったのがくやしいところもあります。
ボランティアとして関わるきっかけになったのは、妻の真紀のドナー登録です。当時はまだつき合っている状態だったんですが、彼女がドナー登録に行ったとき、「最近こちらの地域からの登録が増えているけど、何か理由があるの?」と、窓口の人に聞かれたんだそうです。で、理由を話したら「興味があるなら、こういう会もあるわよ」ということで『骨髄バンクを支援する愛知の会』のパンフレットをもらいまして。その時はまだ名古屋の病院で入院治療を受けていたんですが、外泊日を利用して、『愛知の会』の勉強会に顔を出したのが最初です。
それからもうひとつ、僕は地域の消防団員もやっていたんですが、消防団の仲間が僕への骨髄提供を考えて、病院でこっそりHLA型を調べてもらっていたんです。個人でHLA型を調べると、3万円ぐらい費用がかかるんです。それを自分で負担してまで検査を受けてくれたのはありがたいんですが、僕以外の人に提供するのは抵抗があると言うんです。バンクに登録してくれれば、僕以外の人の役に立つかも知れないのに。そのことがとても残念で、ボランティアをする大きな動機になりました。
骨髄移植や骨髄バンクに関わることを、怖いと思う患者さんもいると思います。でも僕は、骨髄バンクに関わることが、逆に「支え」になっていますね。バンクの歴史自体が、本当に多くの人の手で支えられてきたものだし、それを知ることで自分も「支え」られていると実感できる。また今、いろんなところで活動している人と知り合うことでも、励まされますし。骨髄バンクの活動に関わったからこそ「なんで俺だけが」と落ち込む時期も、比較的短くて済んだんじゃないかと思っています。
骨髄バンクの活動を通じて愛知県職員の方と知り合い、今年3月と8月には娘・愛香の名前をつけた『あいかちゃんのイチゴ登録会』を開催することができました。その前年には真紀と結婚、思っても見なかった娘・愛香が生まれ、そして登録会を開くなど、患者として伝えたいことを伝えられる立場にいる僕は、本当に恵まれていると思います。でもその一方で、患者の代表として自分ばかりが取り上げられていていいのだろうか、という思いもあるんです。
例えば、妻の遠縁の男の子で、最近骨髄移植を受けた子がいるんです。この子は1度自家移植をしたんですが、それでも再発して、今回は海外のドナーから提供を受けました。移植に向けての治療はかなり辛いですから、何度もそんな思いはさせたくないとご両親も迷われたようですが、その子が「頑張る」と言ったので、今回の移植に踏み切ったという話を聞いて。今闘っているこの男の子やご両親のことこそ、知ってもらうべきなんじゃないかと思いました。
僕の場合、適合ドナーは今まで7人見つかりました。ただ、どの方も完全一致ではなかったので、現在8人目の方の3次検査(DNAタイピング)の結果を待っているという状況です。HLA型が合う人が見つかるだけでも、自分は恵まれていると思います。病状が緊迫していると、完全に一致していなくても骨髄移植に踏みきる場合がありますから。完全一致のドナーさんが現れるのを待っていられるのも、恵まれた状況にあるからなんです。
僕を通じて、バンクを身近に感じてもらえればいいなと思います。それが緊迫した病状にある方の役に立てれば、こんなに嬉しいことはない。
それから今病気と闘っている方には、是非希望を持ってほしいと思います。精神的に落ち込んでしまうのは、治療の上でもマイナスだと思いますし。骨髄バンクがあることに象徴されるように、多くの人の支えがある病気だということを忘れないでほしい。
病気になったことで、思っても見なかった現実を突きつけられたことになりましたが、でも病気だろうとそうでなかろうと、現実と一緒に生活していくのが当然のことだと思うんです。できることをやって、それでダメならしょうがない。今は最新の治療を受けることと、病気と闘う環境を作ること、そのために心の健康を保つことと、自分の未来を見つめることを大事にしています。そして、普通に生活していけたらいい。病を得たことで、そんな心境になれました。