「ドナーさんがいなかったら、今生きてなかった」という彼女に闘病当時のことを伺った。
看護師を目指す学生だった20歳のとき、突然発病。骨髄移植で再生不良性貧血を克服してから、再び学校に戻り、念願の看護師&夢だった病院勤務に就いた宮野さん。
PROFILE
宮野千尋さん
その頃通っていたのは 准看護師の専門学校です。午前中は病院で勤務、午後から授業というちょっとハードな生活をしていました(笑)。たまたま職場の健康診断で「血液検査の結果がおかしいから内科を受診してください」といわれて受診したら、そのまま入院になっちゃったんです。
まだ入学して半年ぐらいで、看護の勉強は、基礎の基礎という段階。病院ではいろんな科の外来で看護師さんのお手伝いをしていました。小児科では診察中、泣く子どもをなだめるのが結構大変で(笑)。その頃、風邪がなかなか治らなかったり、だるさを感じたりはしていたんですが、「疲れてるからだろう」ぐらいにしか思ってなかったんです。
私の場合は肝機能から悪くなって、最初は肝炎かもしれないということで入院しました。そのあいだに白血球や赤血球のデータがあっという間に悪くなって。最終的に再生不良性貧血だと言われたんですけど、最初は本当に自分に起こっていることなのか、信じられなかったです。
発病して、まず思ったのは「学校、どうしよう」ということ。治るかどうかの不安より、退学するしかないんだろうかという心配のほうが大きかったような気がします。また入院後すぐは病気の症状が激しく出て、敗血症で意識不明になったりしたので、私自身は学校には戻れないだろうと思ってたんです。だから親には、学校は辞めるといったんです。でも家族のほうが考えてくれて、学校に籍を残しておいたほうが、私の治療の支えになるんじゃないかと休学にしてくれました。
敗血症の危機的な状態からある程度回復したら、今度は血液の病気を専門的に診る血液内科のある大きな病院に転院したんです。そこでもしばらく入院していて。容態がもっと安定して、通院治療に切り替えましょうという段階になって、骨髄バンクに患者登録しました。
私は姉が2人いるんですけど、HLA型はどちらも合わなかったんですね。それは発病からすぐ検査したらしいんですが、私は危篤状態になったりしてたもんですから、家族がどう対応したのか、どんな気持ちでいたのか、ほとんど分からなかったです。「合わなかったよ」と言われて、始めて検査したことを知ったくらいで。
その頃は1日を乗りきるのが精一杯で、移植を受けましょうという先生の話も、遠い将来のような気がして、あまり実感がわかなかったですね。ドナーさんが見つかればいいなとは思いましたけど、見つかる確率が低いことも知っていましたから、きっと見つからないだろうなとも思っていましたし。
通院治療になってからは、1日おきに最初に入院した病院で輸血や注射を受け、転院した血液内科のある大きな病院でも定期的に血液検査を受けていました。体力がないので、通院するほかは疲れて横になっているか、家のまわりをちょっと散歩するくらい。それで1日が終わってしまうんです。
頭のなかは「これからどうなるんだろう」という不安でいっぱいでしたね。暇だといろいろ考えてしまうので、パズルをやってみたり、手の込んだ刺しゅうをしたり、いつも何か手を動かして気を紛らわせていたんです。でも日が暮れるとどうしても不安がつのって、あれこれ考えて眠れなくなるんです。夜が明けて、明るくなるとやっと眠れるという毎日でした。
そんな生活が5カ月ぐらい続いていたときに、ドナーさんが見つかったという報告が届いたんです。最初、候補者は5人と聞いていましたが、詳しい検査のあと 1人に絞られて。先生からドナーが見つかったと知らされたときは本当に嬉しかったですね。その前から検査の数値が悪くなってきていて、このまま見つからなかったらダメだなと思っていたところだったので、「これで生きられる!」と思いました。
その反面、提供が決まったという知らせを聞くまでは、やはり不安で眠れなかったというか。ドナーが見つかっても、提供に応じてもらえないこともあるということを知っていたので。ホッとしたのは、ドナーさんが最終同意を終えて、具体的な移植のスケジュールが決まってからですね。
移植予定日の2週間前から、入院して前処置というもともとの造血細胞を殺す治療をするんですけど、私は副作用が激しく出るタイプだったらしく、前処置もかなりキツかったです。また入院してからもちょっと具合が悪くなって、移植を1週間延ばさなくちゃならなくなってしまったり。最初の予定が延びてしまって、ドナーの方に提供を断られるんじゃないかとすごく不安でした。でも、すぐにOKの返事をいただいて、本当にありがたかったです。
移植のあとは、比較的スムーズに回復したほうじゃないかと思います。1月に退院して、4月には学校に復帰できたんです。このときは、辞めてなくて良かったなぁと思いましたね。ただ前みたいな状態ではないので、しばらくは親に車で送り迎えしてもらって。通学を再開してからも、風邪を引いたり体調を崩したりして何度か入院しました。
なんとか学校を卒業して、正看護師の資格をとるためにまた受験して、2年通学して。念願の看護師になったのは、26歳のときです。ずっと血液内科で経過を診てもらってはいたのですが、そのときにはすっかり元気になっていたので、就職は普通の人と同じように3交代勤務のある病院へ。やはり看護師になったからには、病棟で働きたいというのが夢だったので。
私にとってドナーさんは、まさに「命をくれた人」ですね。リスクを背負ってまで提供してくれた人なので、きっと他人を思いやれる、心のすごく広い人なんだろうなというイメージを持っています。特に私の場合、こちらの都合で移植が延びたりしたので、本当に申し訳なかったという思いもあります。でも、ドナーさんのお陰で学校にも戻れたし、なりたかった看護師にもなれた。20歳のときに終わるかも知れなかった、人生の続きを今こうして生きているのは、ドナーさんがいたからこそですから。
そんなふうに感謝しているんですが、実は私、ドナーさんへはお手紙をだし損ねてしまっているんですよ。それが今も心残りで...。移植直後は治療で一杯一杯だったし、復学してからも学校に通うのに一生懸命で、気づいたらもうずいぶん時間がたっちゃって、今更なぁ...、みたいな感じになっちゃって(笑)。感謝の気持ちをこの場を借りて伝えたいです。本当にありがとうございました。
骨髄移植しか生きる方法がない患者さんは、今もまだまだたくさんいます。その患者さんたちが、私のように、人生の続きを歩くことができるように、ドナーという命の掛け橋になってもらえたらと思います。そのきっかけとなるドナー登録に、もっと多くの方に協力してもらえたら嬉しいですね。